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関係という名の奇跡

「明鏡塾」5.6期と受講している理学療法士からの報告です。

医療において何が大事なのかを、患者さんから学んだ話です。

もちろん、この「学んだ」というのは、自分の力で「気付いた」ということです。

それは、講座を学校で勉強をするように「習っている」という理解出来はなく、自分の力で「学んでいる」という意識を持っているからの事です。

武道であれ、ワーク・ショップであれ、多くの人を見ていると、「習っている・学んでいる」の比率が個人によって違う事がリアルに分かります。

その意味でも、医療技術やそこにある思想をどう汲み取るのかは、本当に個人によって違います。

今回報告してくれた理学療法士は、コツコツと現場で積み重ねていくタイプです。

こういった地道な積み重ねが大事なのです。

 

症例報告 (頭部外傷、左前頭葉・右後頭葉の脳挫傷、脳全体のびまん性軸索障害、微細出血)

頭部外傷の70代の男性を担当不在の間に代行した際のことです。

結論から述べると4か月間、寝るか座るかの人が、わずかな介助で50m歩けるようになりました。

この方は頭部外傷により覚醒はしているが、人や状況の把握ができず、言葉も意味のあるものを話すことがほとんどできず、不明瞭な言葉をずっと話し続けていました。

また、自分の体の感覚も適切に脳が処理できず、座っていても足がつっぱり後ろに倒れたりしていました。

最初に病室から車いすに移る際も、体が過剰な抵抗をしていまい、それに一苦労でした。「言葉の裏側を聴け」という明鏡塾の教えを実践し、とにかく発する声に耳を傾けながら、髪をとかし爪を切り、手足をおしぼりで清潔にし、それから訓練室へ移動しました。

その人の言葉は分からなくとも、私や周りに何かを言ってくれている気持ちが嬉しく、不思議なことに、その人の話を聴いていると私が笑ったり、あるいは悲しいような感情の揺さぶりを感じました。

それは例えば「表面上の言葉に笑っているのではなく、それ以外の何かに笑う」という私達のする、ごく普通の会話と同じでした。

そんなやりとりをしながら、訓練室で横になっていただき、体をみていくと両下肢と頭の情報が一致していないこと、外傷による首のダメージが残存していること、両手が別人のものになっていることが感じ取られました。

それらに対し体をくまなく丁寧に触れていると、しばらくの間患者さんは眠ってしまいました。

それから目を覚ますと歩きたいような素振りが見え、座っている状態から立とうと介助をしようとしました。

しかし、なかなか立ってくれませんでした。

それで話を聴くとトイレに行きたいということが分かりました。

この患者さんはつなぎを着ており(オムツいじりができないようにするため。)、トイレに行くには大変な介助量が必要であったため、私はトイレに連れていくことを即断できず、また立たせたいという思いもあり、トイレに行くのを渋ってしまいました。

しかし、患者さんとしてはトイレに行きたいので、埒があかないとい状況になりました。

「トイレに連れて行くのが大変だからおむつに排泄して」という病院都合の人の尊厳を傷つける行為を、理学療法士としての私はしても良いのかと思い直し、その日の訓練は諦め病棟に戻り介護士と2人でトイレに連れて行き、失禁なく排泄ができました。

すると、今まで意味のある言葉を話さなかった患者さんが「なんだよ、あの看護師さん、俺のパンツ持っていっちゃたよ、困るなー」と喋りました。

そして車いすで部屋に戻る途中に、すっと立ち上がろうとしたので、そのまま手伝うと歩き出しました。

ほとんど支えるだけで一人で50m歩けたのです。

病棟で歩いたので多くの看護師と担当の医者がそれを見ていました。

歩く姿に奥様は泣いていました。

数日前に医者から奥様に「歩く見込みはなくこれ以上回復しない」という説明を奥様は受けていたのです。

その場にいた多くの看護師は唖然としていました。

私としてはもっと喜んで欲しかった。

これは奇跡ではなく、一生懸命に話を聴く、丁寧に治療をする、トイレに行きたいという要望に応える、ただそれをしただけなのです。

4か月の間、歩けなかったのではなく、その芽を医療者が摘んでいただけなのです。

一瞬でもトイレに連れて行くことを渋った自分を恥じます。

そんな医療を提供する病院を恥じます。

もし丁寧な対応をみんながすることができたらと悔しく思います。

患者さんが治るためには、全職員の力が必要です。

医療が心のある道に進むように、それを願う一人の人としてこれからも歩んで参りたいと思います。

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