明鏡塾を推薦する医療従事者
柔道整復師・三浦良平
三浦 良平
私はこの明鏡塾を「達人養成講座」と勝手に呼んでます。
この明鏡塾では全て治療技術に絶対に必要でありながら、誰も教えてくれなかったものが学べるからです。
それは"関係性"です。
私も多くのセミナーに参加してそれなりに成果を上げてきましたが、なぜかしっくりくる事がなかったのです。
特に上手く結果が出ない時は相当悩みました。
治療技術や知識ばかりに目を取られ、肝心の治療対象である人を見てなかったからです。
治療というのは相手があって成立し、その相手で治療を受ける人と治療する人との関係性が全てです。
極端に言えば治療方法の違いはどうでもよいことです。
治療の本質は関係性です。
もしかしたら達人と呼ばれる先生方も知らず知らずに会得していたのかもしれません。
ただ伝えられなかっただけで…
明鏡塾では、日野晃先生はこの関係性を体現して様々なユニークなワークで実習してゆきます。
それらは今までに経験したことない事が多く、なかなか上手く出来ません。
最後まで要領がわからないままの事も多くあります。
しかし出来ないなりにも自分の中の"何か"が残ります。
この"何か"日々の治療に活かされているようです。
達人になる為に普通の勉強では成れないかもしれません。
私は関係性を学ぶ先に達人になる未来が見えています。
自分が与える違和感に気付くことから始まる
内科医師・堀切康正
私は、医師14年目の内科医です。
大阪明鏡塾には1期から参加しています。
職場は病院ではなく、特別養護老人ホームで常勤として働いています。
職場の性質上、仕事の中心は看取りに関連することです。
少しずつ体が弱ってきた患者さんやその家族と、今後の生活と医療の関わり方についての話をします。
病院ではない環境、話の性質などから、面談の際は非常にシビアな状況になることも多いです。
そのような環境で働いていて、明鏡塾での学びは非常に重要だと感じます。
実際に明鏡塾でどのようなことを行うか、についてはHPに記載、他の受講生の推薦文がありますので、そちらをご参照ください。
私は、医師・受講生として「明鏡塾でしか経験出来ないことは何か?」についてお話したいと思います。
まず、結論ですが、明鏡塾でしか経験できないことは、違和感を与えている自分に気付くという経験、です。
●違和感を与えない手
明鏡塾のHPの講座内容には、こう書かれています。
「明鏡塾」では施術の方法を指導するのではありません。
その、前段階の「感覚」や「手」そのものを、患者様利用者様に「違和感を与えない手」になるように能力開発する講座です。
その「違和感を与えない手」を糸口として「関係」を学びます。
この「違和感を与えない手」になるためには、「違和感を与えている手」を知る必要があります。
例えば、「背中に触れる」という基本ワークがあります。
これは、寝ている相手の背中に両手で触れるというだけのワークです。
当然、最初は何もわからない状態です。
分からない状態でも、繰り返し他人に背中を触れられ、自分も背中に触れるという行為を続けます。
そして、時折日野先生の「違和感を与えない手」で触れてもらうことで、逆に「違和感を与えている手」が明確になってきます。
●違和感から関係へ
「違和感を与えない手」で触れられた場合、体に余計な緊張は生じず、むしろ、体の緊張がほぐれて非常にリラックスした状態になります。
このように、手を通して相手の体に作用している状態を、日野先生は「関係している状態」と表現されます。
この時、触れている側は、手を通して相手を感じることに集中しています。
「あれ?これは、、、」と、頭で考え始めると、途端に手が「違和感を与えている手」に変わります。
頭で考えてはいけないのです。感じるだけでいいのです。
●関係が安心・笑顔につながる
「背中を触れる」では、手で相手の体に作用します。
これが、「眼で聴く」というワークでは目で、「声を届ける」というワークでは声で、と変わっていきます。
ただ共通していることは、相手に作用して、余計な緊張を生じさせないことです。
私の普段の仕事は、相手の話を聞き、診察して、診断して、それを相手に伝えることです。
明鏡塾で行っている、眼で聴く、触れる、声を届けるは、そのまま仕事で行っていることと同じです。
逆に、診察という短い時間の中でも、緊張を生じさせる場面は、これだけあるということです。
その場面を少しずつ減らしていく稽古が、結果として患者さんの安心・笑顔につながると考えています。
私自身、まだまだ「違和感を与えている手」ですが、継続して受講することで少しずつ変化を実感しています。
決して簡単な講座ではありませんが、共に研鑽出来る仲間を募集しております。
ともに「違和感を与えない手」を目指して精進していきましょう。
美しい言葉は、ここにあった
認定看護師 木村芳子
なんで看護師になろうと思ったんだろう
どんな看護師になりたいって思ってたっけ
きっと忙しい現場にいると、そんなことを考えることがありませんか。
私しょっちゅうでした。
そして、看護の世界では、患者さんやご家族に”寄り添う””共感する””生きることを支える”といった、抽象的できれいな言葉がたくさん飛び交っています。
私も緩和ケアを専門領域に看護師として活動をしているので、そんな言葉をよく使っています。
でも、どうしたら患者や家族に”寄り添った”ケアになるのか、ということは学校で教えてくれません。
それは臨床に出てからも、その具体的な患者や家族との関わり方を、集合教育などで習うこともありません。
実践の中で、各自が身に着けていくものという感じが強いように感じます。
本当は看護の本質で、とても重要なことなのに。
少なくとも私はそうやって約10年くらい、もがいて過ごしてきました。
想い描く理想の看護は、いろんな本や人との出会いの中で、きれいな言葉がどんどん増えていってさらに彩りが鮮やかになっていきました。
でもそうなればなるほど、その理想を実現するためには具体的にどうしたらよいのか、ということを知らなければと思いました。
医療が高度化する中で、覚えなければならない知識も多くなりますが、看護の基盤を支えているのは、目の前にいるその人そのものと関わり、その関係性をもとにその人に働きかけ、援助していくというものだと思います。
そして、私たちが患者さんやご家族に寄り添うためには。
真に患者さんやご家族の声を聴くためには。
患者さんやご家族に私たちの声を届け、安心や希望を見出してもらうためには。
私たちはその場に違和感を与えずにどう存在することが求められるのでしょう。
どうその場、その人に触れればよいのでしょう。
それを明鏡塾では「具体的」にしていきます。
その具体的なことを知識だけではなく、実際に身体を使って体験していくことで、自分のものにでき、感覚はどんどん澄んでいきます。
そして 臨床の現場では明らかに患者さんやご家族の反応が変わっていきます。
とても面白いくらいに、患者さんやご家族の笑顔がきらきら輝く、私たちの笑顔もきらきら輝く。
当然のことです。
関わる私たち自身が大きく変化しているのですから。
きっと明鏡塾が終わるころには、看護師としての自分がとても明確になっていると思います
だから、その場にいるときの在りようも、発する言葉も起こす行動もすべて違うはずです。
そんな素敵な場を誰がつくっていくのか。
その誰かを待っていても誰もやってくれません。
その変化にあなたがなりませんか。
そのための仲間が明鏡塾にはいます。
本気で楽しむ、本気でいのちと寄り添うための時間と場が、明鏡塾にはあります。
ぜひ看護師のみなさんとご縁がつながっていくことを、たくさんの仲間が楽しみにしております。
明鏡塾での学びの肝はこの「関係」が及ぼす心身への影響を知ることにある。
理学療法士 尾森亮太
明鏡塾での学びの肝はこの「関係」が及ぼす心身への影響を知ることにある。
今期明鏡塾は2回のみの参加になった。
今期は2日目と本日の最終6日目に参加した。
以前よりも明らかに言葉の選択が的確になっている。
元々感覚的なことや考えを言語化するのが苦手だ。
それは今も特別変わらない。
それがかえって良かったと思えている。
【結果的な状態を知る】
今日の午前中は明鏡塾常連の看護師さんと組んだ。
触れた瞬間からすぐに手の状態が変化することを察知した。
おそらく「あ、ミスった」というような認識を持ったのだろう。 しかし、実際にはその触れた瞬間の方が感じは良かった。
自分としてのしっくり来るということと受け手の印象の乖離があり、結論として言えば相手の受け取り方が全てになる。
ただ相手の受け取るセンサー、そしてそれを言語として表出する能力は千差万別だから、それを絶対にしてはならないが、いずれにしても「自分なりの手ごたえ」にいかほどの信憑性があるかは疑ってかかる必要がある。
組んだ看護師さんの手がだいぶいい感じになったので、他の参加者にもすぐに受けてもらって、同様の感想を得ていた。
当人は「何もしていない」と言う。
それが良いと言われるのだから、「?」だ。けど、今回は「何もしていない」という意識状態においての感触を得ていた。
だから、再現性があった。
ここがとても重要だ。
明鏡塾では毎回の講座で宿題が出され、会の冒頭で宿題の取り組みについて皆に感想や結果をシェアをする。
そこで、なんとなく得た感じを技術化しなければならないという話が出た。
技術というのは方法であり、方法というのは「こうすればこうなる」、「こう見ればこう解釈できる」であり、それを絶対的なものにするには理論の強化ではなく、試行回数を増やして確率を上げることに他ならない。
「こうすればこうなる」は、そこに条件があるから成立する。
その条件はイレギュラーと遭遇しなければ見えてこない場合がある。
そういう意味で失敗をすることはめちゃ重要になる。
ただどんな方法にも、それだけでは解釈しきれない条件がある。それが「関係」だ。
明鏡塾での学びの肝はこの「関係」が及ぼす心身への影響を知ることにある。
寝転んでいる人に歌を歌い、また話を聞き、また呼吸を感じることで軽々起こせてしまう体験は、巷の介護技術よりも遥かに効果的で、人は反応し合う動物であることを理解するのに十分な経験となる。
そして、そこを原点として技術的なものを組み上げていくのが明鏡塾の稽古である。
関係と技術は二元論のように語れるものではなく、技術は関係の中に包含され、関係に立脚して技術は効果を増減させる。
「関係」というのは「技術」は対比関係にあるのではない。
どちらも扱うのは人であり、自分であるという点で切り離して考えることは出来ない。
技法の成熟は関係的要素が薄まっても効果が出る確率を上げる。 そして、関係の成立は技法の未熟をカバーしうる反応を生み出すこともある。
そのどちらも高グレードに進化させようというのが明鏡塾での稽古である。
骨には触れずに広背筋にだけ触れる。 反対に筋肉を潰さずに骨のみに触れる。
言葉通りに受け取ることは出来ても、それを実体として表すことは難しい。
イメージや思い込みではない。
そう思えば出来ることでもない。
その言葉や指示を頼りに、「今自分は何をしているのか?」「何が出来ているのか?」と自分を見つめる。
この視点を育てないと、「言われたことをやってます」という頓珍漢になる。
言われたことをそのままやれるならば、とても優秀だ。
あるいはすでに相当な経験をお持ちだ。
言葉と実体を結びつける能力が高い。
あるいは、実体としての経験値が豊富だから、言葉の理解もすんなりいける。
今、自分は明鏡塾で培わせていただいたものを実践し、さらにまた色々なことを学ばせてもらっている。
改めて自分が置かれている環境には感謝だ。
その上で何をどうするか、それが問われている。
今頭の中に朧げにあることを実現するには仲間が必要で、そして明確な言語化も必要。
しっかりそのための時間を自分に与え、他者を巻き込み、巻き込まれながら進んでいこうと思います。
11月より明鏡塾・東京は16期を迎えます。
リピーターも多い環境で、サポート体制も充実しています。
今期参加の方々は、びっくりするくらい飲み込みが早かったです。
毎回、完全に煮詰まっていた1〜5期くらいまでが懐かしい。
集団もやはり生き物なのだなと感じます。
仕事をより良く、生き方をより良く
内科医師 東洋医学医師・来須正幸
世の中は多極化の時代へと大きく変わり、今までのように言われたこと、決められたことをやるだけでは通用しなくなってきた。
有力者が決めたような正しい医療なんてなく、正しい医療や生き方を、死ぬまで追求していくのが本筋だろう。
明鏡塾で学ぶのは、単なる技術ではなく、「人、生命とは何か、人との関係はどういったものか」といった本質的なものだ。
自然の摂理、宇宙法則、物事の道理といった、昔から変わらない根源的なものに触れる。
古から伝わる教え、名人芸、芸術品に触れたとき、人はそれぞれのレベルに見合った感銘を受ける。
日野先生の教えもそういったものかもしれない。
ただその深さはどれくらいか、未熟な私にはわからない。
「お前、なめてるやろ」とよく言われるが、至らなさゆえ、なめるつもりはなくても、なめたことをしてしまう。
それでも十分そのすごさは感じられるのである。
日野先生は誰にでも最初からいきなり名人芸を教えられる。
ワークの課題は簡単そうに見えるものでも、難しいものばかりだ。
実際に自分でやってみるとわかるが、まずできない。
日野先生の手本と比べてみては愕然とする。
学校やスポーツ教室などでは、教わる通りにしたらできるかもしれないが、それなりの面白さだ。
私は明鏡塾でずっと同じことに取り組んで6年以上も経ってしまったが、出来なくても、努力に応じた分の喜びがあるから続けていられるのだと思う。
そしてちょっとでも会得できると、今まで自分が知らなかった世界がひらけてくる。
するとさらにその先が見え、どんどん深みにはまっていく。
いわゆる道である。
その道中では、自分の欠点、悪い癖にいっぱいぶち当たる。
自分のダメなところ、見たくない姿を直視するのは嫌なものだ。しかし自分の欠点を素直に認め、修正していくと、大きく成長することができる。
がっくりしながらでも、粘り強く続けていけば、気持ち、感情、感性といった、生きるのに本当に大事なものが養われていく。
そしてある時ふと、どんな年でも進歩できるのだ、と気づき、うれしくなる。
明鏡塾で学ぶことは本質的であるゆえ、医師、看護師、柔整師、理学療法士、鍼灸師、介護士など、まったく立場が違っても、どのようにも応用が利く。
また同じ職種でも、それぞれ追い求めているものが違うので、個性がいい感じで花開いていく。
日野先生は年をとるにつれ、ますます円熟味が増してきた。
人は皆、寿命というものがある。
やるなら今のうちだろう。
一緒にこの面白さを知る人が一人でも増えたら、本当に素晴らしいことだと思う。
Customer Support Lead
柔道整復師
柔道整復師 太田 幸孝
私にとっての明鏡塾
このページを開いた皆さんへ、
見えている、聞ける、匂える、触れれる、声を出せる。
ほぼ誰にでもできることです。
しかし見る、聞く、匂う、触れる、声を出す。
本当にできていますか?
自分でできていると思っているだけではないでしょうか。
自分の意思でそうしている事は、結局自分の自分勝手な満足で終わっていませんか?
これらの感覚は生きていく上で大事なものです。
しかし生きていくのは自分以外のあらゆる者との関係性の中で、これらの感覚を使って生きているのです。
「自分以外のもの」
これらをあなたは本当に感じていますか。
実感として捉えていますか。
ここをトコトン掘り下げないとただなんとなくただこんなものでいいかと自己満足し、何も得ることなく人生を終えてしまうのではないかと思います。
我が師匠 日野晃先生は、これらのことを単純で誰でもできる方法で確実に教えてくれます。
無知の知、汝自身を知れ ソクラテスの言葉ですが古の偉人がどれほどすごかったか、明鏡塾に来て痛感します。
そしてそれを現代において積み上げさせて実感させてくるのは、日野晃先生において他にはないと思います。
私は大阪で接骨院をしている柔道整復師ですが、明鏡塾には大阪講座が開講してから10期連続で参加させていただいています。
1度も休んだこともありませんし、なぜそんなに長く受講できるのか。
それは非常に面白いからです。
そんなに長く受講してあなたは何ができるのですか?
どこまでできるのですかと問われても、それは明鏡塾を受講してもらわなければ、言葉では言い尽くせません。
なぜ連続して続けられるのか。
それは日野先生があまりにもすごく、楽しいからです。
先生の著作、ブログなどを読んでいただければわかると思いますし、私から先生のことを語るのはおこがましいですが、私が知る限り、学生の頃に体操競技を行い、水商売の道に入り、ジャズドラマーをプロとして続けられ、必要があって、武道の道にはいられ今に至ります。
先生は、どの時点であっても、人に教えてもらうと言うことなく、すべての事、何かからヒントを得、目的を遂行するために、それもより完璧に、自らその方法を模索し、作り上げ、そして表現として完成させてこられました。
文章にすれば簡単ですが、その緻密な内容や、それを地道に作り上げ、やり遂げたと言うこの素晴らしさ、まして、プロのジャズドラマーで居られたと言う事は、私にとっては憧れ以外の何物でもなく、何よりもプロとしての努力や感覚、これを直に感じてみたかったのです。
プロのジャズドラマと言う事だけでなく、ダンスバレー舞台芸術表現においても活躍されておられ、芸術と言うこれは素晴らしいものですが、本来なくても良いものであって、この舞台でプロとして生きてこられたと言うことに非常に惹かれ、まして武道家で医療のことを教えるなんて他にありえないでしょう。
そして、様々な鍛錬によって、先生はどうも時間も、距離も、空間も、意識も、感覚も、自在に操れるようなのです。
もちろん人との関係性を重要視する明鏡塾ですから、相対する人も自在に操つりそうです。
多分、初めから普通の人とは違う何かを備えていらっしゃったとは思うのですが、そこまでの過程が段階を踏み、地道に努力し、泥臭く、とんでもないことをするので特別なようでいて、特別でない人間臭さ。
そういうところが私にとってはたまりません。
先生はソクラテスではありません。
が、おそらく柳生宗矩、宮本武蔵を導いた、沢庵和尚であると、この生まれ変わりでは無いのだろうかと常々感じます。
その時代何かの理由で僧侶になったけれど、今世武道に入り伝説の武道家として知られています。
このページを開いていると言う事は、あなたはきっと何かを求めている、もしくは悩んでいると言うことではないでしょうか。
日々何とか頑張っているけれども、結果がなかなか現れない、もっと何とかできないであろうか、その他いろいろお考えのことと思います。
我々医療に携わる者にとって勉強してもしても追いつかないこの人体と言う不思議に毎日圧倒され負け続けているのではないですか?
おそらく昭和の30年代真ん中以降の世代にとって今では死語となった。
3高(高身長、高学歴、高収入)を目指し、受験戦争に突入していくわけですが、機械的に勉強ができればいいと、そんな詰め込みの教育を受けてきた結果、本来考えなければいけないこと思考すると言う事これらを機械的に行った結果、人間本来の直感や感じると言う最も大切な感覚を埋めてしまったんではないかと常々思います。
直感を信じられず、思考力も低く、アイディアも乏しい気がつかない。
ただ、ただ、データに基づき教えられたことだけ、忠実にそれだけで人間、人体と言うとてつもない底知れない相手に立ち向かわなければならないのが我々医療人です。
もちろんそうでない素晴らしい方も沢山いらっしゃいますが。
このような現実に立ち向かうために、そして真に人間としての素晴らしさに目覚めるために、日野先生主催の明鏡塾は存在します。
明鏡塾で行う事は単純でありながらも、その中に恐ろしくたくさんのことを考えさせられる内容が含まれていると実感でき、あらゆる事、あらゆる場面で活かせます。
昔の芸事のように師匠のお手本を見取り稽古しおのずから、自分の頭を使い、たくさんの気づきを得て実践していくことになります。
アインシュタインは、「人間とは、思考と理性の牢獄にとらわれた存在である。」と言いましたが、思っているではなく、自分に偏らず本当の思考する事を身に付けることにより、植え付けられた認識、価値観の牢獄から解放されて具体的に必要なことへのアプローチが確実になります。
単純な何気ないことの中にたくさんの気づきを得ていく事は、自分の感覚や意識の世界を広げていくこととなります。
また、文豪ゲーテは、「無限を知りたければ、有限の中に無限を見つけよ。」と言いましたが、明鏡塾でのワークはまさしくこれそのものです。
こうして、己自身を錬磨していくことにより、自分の意識や感覚の質が高まり、人間としての存在の充実へと導かれていきます。
いずれ、物理的な現実世界だけではなく、自分自身の意識や感覚の世界と言うものが実感され、それを武器に現実世界、圧倒的な人体と言う不思議に対応できるようになると私は考えております。
明鏡塾はまさしく医療の現場に立つ者には最高の場であります。
明鏡塾での錬磨が自身の感覚、意識をより実感を伴い純度を高め、己の存在を確固たるものとします。
そして周りの全てとの関係性の構築がより良いものとなって行くでしょう。
本当の医療人、本当の自分を確立する為に「明鏡塾」の門をくぐる事を推すすめします。
狭き門より入れ。
アンドレ ジードは言いました。
明鏡塾でやる事は門は広いかも知れませんが内容はかなり狭いです。
しかしそこを潜っていけば広大なブルーオーシャンが待っています。
誰しも色んな事に不安を持っています。
上手く行かない事もしばしば。
人間は全て平等ではなく、人間は全て平等に不平等なのです。
一つずつ問題をクリアする為にも医療に限定されない人生の
全方位対応型の日野理論を「明鏡塾」で骨の髄まで味わって下さい。
そうすれば、治療技術は教えない明鏡塾で自分の力で自分だけの治療技術を貴方は創り上げて行けるでしょう。
巷の治療技術セミナーに振り回される事なく。
講座時間中、その後の懇親会は楽しすぎます。
貴方の参加、お待ちしております。
柔道整復師
柔道整復師 稲石 亙佑
私は、治療院業界に携わって20年ほどになります。
数年前の私は、(技術を習ってそれを習得すれば患者さんは治るんだ)という思い込みから、医療系セミナーに通い詰めていた頃に、その技術を使って施術をしても、良くなる患者さんもいれば、全く良くならない患者さんもいて、施術のやり方に囚われている自分がいました。
本当に自分の方向性はあっているのかな?と疑い始めていた頃に、体の使い方や 自分自身の手の感覚が鋭ければ、どんなやり方をしても上手くんではないかという思想に行きつきました。
とある時、武道系のユウチューブを見ていると、目で人を倒す達人がいるという動画で日野先生を知りました。
本当にそんなことができるのか、すごく興味がわき、大阪のワークショップに参加しました。
そこで、日野先生に初めてお会いし、ワークショップが終わるころには「明鏡塾」に行こうと決めていました。
なぜなら、日野先生とのやりとりのなかで、この感覚を絶対掴みたい。
求めていたものは、ここにあると感じたからです。
日野先生、和子先生、明鏡塾の方々と出会えたことは、私にとって奇跡的でした。
長年、右往左往しながら、苦しんでいた自分はもういません。
今は、迷いもなくなり、頭がクリアになり、踏み込んでいける自分に生まれ変わりました。
感謝しかないです。
人間の持つ様々な感覚を研ぎ澄ます。
手の感覚、体感覚、意識の起こり、人との関係性等。
明鏡塾では、様々なワークを通して、知らぬ間に、獲得されている感覚に驚きます。
ワークを通して、ペアの方から何かしらのフィードバックをもらうわけですが、一切忖度のないやりとりの中、出来ていない自分を知ることになります。
それとともに、自分の伸びしろを認識しチャレンジしていきます。
世間にある、治療系セミナーとは、一線を置いた、別次元のセミナーだと思います。
これは、実際に私が数々の治療系セミナーを受講してきて実体験として感じている事です。
明鏡塾では方法を教えてもらうことはありません。
他では、絶対に気づくことのできない、深い気付きを得て、それを自分の日常に落とし込み練磨していく。
そして又セミナーに参加して、明鏡塾の方々と忖度のないやり取りを繰り返します。
明鏡塾には、医者・歯科医師・理学療法士・整体師・柔道整復師・鍼灸師・介護士・等 様々な方が参加されています。
いろいろな職種の方たちと、話すことは、とても貴重であり、刺激的です。
明鏡塾に来られたら、このような世界があるのかと、初めは戸惑うかもしれませんが、
チャレンジしていき、回を追うごとに、変化している自分に驚くでしょう。
何回も何回もチャレンジしていく時の自分自身の在り方こそが、その瞬間こそが、とても大切であると気づきます。
患者さんや利用者さんの、今までにない、変化を目の当たりにしてあなたは大変驚くでしょう。
自分では気づかないうちにあなたは成長していっているからです。
これも、明鏡塾に来て、最近気づいたことです。
知らぬ間に、今まで気づけていなかった事が気づけるようになっていたりします。
自分自身の成長は目に見えるものではないので、ここで明鏡塾で行っているワークでのコメントのやり取りが活躍します。
もちろん忖度はなしです。
忖度のない鋭い指摘をやりあえる場というのは、明鏡塾ぐらいしかないです。
このやり取りは、明鏡塾のワークの醍醐味でもあります。
鋭い指摘により、まだまだ出来ていない自分を知り、気づき、それをどう自分に落とし込んで、どのような行動を日常でとっていくかを決めるんです。
出来ているつもりの自分。
やっているつもりの自分。
いつもと違う自分に気づけるわけです。
これは、本当に凄い事です。
日常では気づけるはずもない事に気づける。
(こんな自分だったのか。)
(自分は、どんな自分になりたいのか)
結局これを決めて進むだけなんですが、これを実現するためには、同じような志を持った、共に切磋琢磨する仲間が必要なんです。
明鏡塾にはその仲間がいます。
皆さん医療のプロとして活躍されている方ばかりです。
そしてなんといっても、日野先生がいてくれます。
熱い志のある方は、是非、明鏡塾の門をたたいてみてください。
その先には、新しい世界・新しいあなたが待っています。
唯一無二の場
相馬中央病院 原田文植(内科医長)
「人生は短く 術の道は長い 好機はすぐに過ぎ去り 経験は誤解を招き 決定は困難を極める 自分の義務を遂行するばかりでなく 患者 介護者 環境がおのおのの役割を果たせるよう取り計らうのが 医師に課された役割である」
医学の父ヒポクラテスの言葉です。
医師のみならず、全医療従事者が心に銘記すべき、重要な理念ではないでしょうか。
医療を自分の進むべく「道」と決めたなら、あとは役割を果たすのみです。
明鏡塾はこの理念を真の意味で実現しようとしている唯一無二の「場」です。
回を重ねるごと、受講者の皆さんの眼差しが変わっていきます。
非常に心地よい「距離間」、真剣に「聴く」、相手に違和感を抱かせることなく「触れる」、最も大切な技術であるにも関わらず、臨床現場できちんとできている人は本当に少ない。
学ぶ機会はほとんどありません。
根拠もなく、我流でやってるのが現状です(意識さえされていないかもしれません、残念なことですが…)。
明鏡塾で学ぶことによって、この技術と効果に確信を得ることができるでしょう。
患者さんと本気で向き合い、患者さんの無限の可能性を確信できれば、治癒率は信じられないほど上がります。
日野先生は「絶対にみんなができるようになる」と断言されます。
真の医療はチームでなければ実現することできません。
ここにたどり着いた自身の「運」と「縁」を確信して下さい。
限界を感じているあなた、迷っている時間は無駄です!仲間になって、オモロイ世界を一緒に創りましょう!
※「1971年、大阪生まれ。医師・医学博士。蔵前協立診療所所長。内科認定医、認定産業医、スポーツ健康医、在宅医療認定医。合同会社ロータス・ダ・ヴィンチ役員。大阪医科大学卒業後、大阪府済生会中津病院血液リウマチ内科専修医として働く。大阪医科大学微生物学教室で博士号を取得後、国立感染症研究所にてフラビウイルスの研究に取り組む。2008年より蔵前協立診療所所長。日本東洋医学学会に所属。医療活動のほか、執筆活動、コーチング、武道家・格闘家との交流、映画出演、都内を中心に音楽ライブ活動など幅広く活躍 『病は口ぐせで治る! 医者が教える「病気にならない言葉の習慣」』より」
患者さんには触れていなかった
歯科医師・下条勝彦
明鏡塾では、まず最初に「背中に触れる」ワークから始まる。
歯科医として日常背中に触れることはないが、人に触れ、触れられることにより、互いにどれほど違和感を与えているか、4回のワークを終え、ますます強く感じている。
仕事はもちろん日常生活の根本のところなのに、未だ触れることが出来ない。
しかしながら、触れられる体験を通して違いは少しずつ分かるようになって来ている。
「目で聴く」というワークも行う。
お互いに良く知っている簡単な歌を歌い「聴き」「届ける」のである。
聴いても、届いてもいないと言われるが、最初は全く理解できない。
先生は、「犬の呼びかけは自然に自分に向けられたことが分かるのに、ほとんどの人間は同じことができない。本来当たり前のことである。」と言われる。
確かに先生の行っている姿を見た後、自分たちのワークを行っている姿を写真に撮り比べてみると、違いは歴然である。
未だ相手としっかり向かい合い歌を届けられないが、違いは感じとれるようにはなった。
今まで見ていた物の周りに、見えていなかった世界がこれ程広がっていたとは、本当に驚いている。
患者さんがドアを開けた瞬間から始まる「関係」の大切さは頭で分かっていたが、その意味は全く理解できていなかった。
治療を敬遠する原因は「痛み」、「機械音」などと言われており、どうしてもそこに捕らわれてきたが、それを感じる「人」に対しどんな対応をしてきたか、どう見られていたのかを考えると、汗顔の至りである。
違和感から生じる緊張を減らすだけでも痛みが減ることに気が付いたり、笑顔が増えたりと徐々にではあるが変化が現れている。
今後がますます楽しみである。