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当たり前の事が出来ていなかった

  • 理学療法士
  • 2018年2月2日
  • 読了時間: 3分

新しい患者さん(40代男性、くも膜下出血、両側麻痺、失語)を担当したときのことです。

新しい患者さんを担当したときは、リハビリ開始の前日の夜に挨拶にいく。

予定表を持ち、患者さんの部屋に行き、挨拶をした。

失語があるので身振り手振りを交え、困っていることを聴いていた。

「足が・・・」「看護師・・・」「もっと・・」「重い・・・」のように言葉が単語で途切れてしまう。

しかし、その言葉に続いていたであろう苦しさや思いは、私に届いていた。

やりとりをしながら、ふと寒いのかなと思い聞いてみたが、言葉では伝わらない。

しかし表情がそれを物語っていたので、すぐに布団とタオルをもう一枚持っていき患者さんに届けた。

すると表情は少し和らぐがまだ硬いままであった。

私は何が足りないの だろうと周りを見渡した。

テレビを見たいのだと直感した。

同時に部屋の気遣いのなさに気が付いた。

テレビのイヤホンが患者さんに届いていない。

テレビとベッドの距離が遠い。

リモコンが手元にない。

テーブルが手の届く範囲にない。

ごみ箱が捨てやすい位置にない。

ティッシュに手が届かない。

私はこれらの全てを解決した。

それでやっと笑顔が見られた。

その嬉しそうな顔が本当に嬉しかった。

「これで大丈夫ですね」と言った帰り際、全く同時に握手をした。

そして患者さんが「明日からもよろしくね」と言葉につまらずに喋った。

その言葉が大変に嬉しく、また、治療というものを考えるきっかけになっている。

実際、今回のできごとのように失語の治療をしているわけではないのに、治療が成立している。

明鏡塾の「聴く」と、部屋の居心地がよくなるための工夫をしただけである。

施術以外のことも治療の一部であるということを、はっきりと示した結果になる。

また、握手のタイミングが同時であったこと、その握手の力が同じであったことから、私の「触れる」が患者さんに近づいたとのだと振り返っている。

「触れる」の技術は、感覚として磨いていくものと、関係(気遣い)によって宿るものがあると今回のことで学んだ。

理学療法士としての役割が「患者さんが治ること」であるならば、行動の全てが治療に繋がっていなければならない。

施術だけではなく、気遣いと行動の積み重ねである。

その行動の最中に必然的に知識が要求され、勉強をする必要がある。

また、わずかな言葉の違いだが、「治す」と「治る」には大きな違いがあるとこの患者さんから学ばせて頂いた。

「治す」は関係を無視しやすく、私がそれをしたいといった独りよがりの対応になる。施術だけが治療であると考えていると、これに陥る。

「治る」は施術だけでなくすべての行動が治療であると心得ているので、関係を尊重した対応になる。

当然、関係を尊重しているので良い治療結果となりやすい。

 
 
 

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