「触れる」は進化する
「触れる」というのは、理学療法士としての私の現場では日常的行為です。
例えば相手に触れる時に、「何に触れるか」ということを明確にするだけでも、触れる手の印象は変わります。
そのことで、触れた手から得られる情報は変化しますから、患者さんにとって適切な部位に手当てをすることも可能になってきます。
日野先生は受講生に「自分自身が要求すれば、いくらでも『触れる』は深くなるで」と伝えてくれています。
これは私にとってはとても斬新な考えでした。
適切に触れるためには、解剖学的知識や運動学的知識、また触診の練習が必要だと考えるのが一般的でしょう。
私も臨床に出たての頃はそのように考えていました。
ですが、日野先生からその言葉を頂いたときに、ハッとしたのです。
「そうか、自分自身が自分自身の手に何をさせたいのか。
それを明確にする過程が触れるの進化なのだ」とその言葉から気づきました。
自分自身の手に何をさせたいのか。
それは言葉を変えると、自分自身の手に意思を持たせるということです。
意思のない手は、相手に大変な不快感を与えます。
『明鏡塾』では、まずこの意思のない手を、意思ある手に変えることが求められます。
具体的には何に触れるか、例えば筋肉に触れるのか、骨に触れるのか。
触れた部位から脈をとるのか、呼吸を感じるのか。
対象を明確にし、「どんな情報を知りたいのか」をはっきりとさせるのです。
そういったものに「深さ」や「質」があることは日野先生の「触れる」に、そして『明鏡塾』という場に教わりました。
「意思を明確に」という切り口の他に、「触れる」には必ず対象となる相手の存在があります。
そうなると、こちらの一方的な意思で触れようとすると、相手は違和感を示し、嫌悪感を抱かせてしまうことがあります。
そこで重要になるのは、相手との「関係性」ということになります。
「違和感を与えたらあかん」
これは稽古の度に、いただく言葉です。
逆に言えば、それほどに相手は違和感を感じている、感じさせているのです。
もちろん、「違和感を与えたらあかん」と言葉をもらい、「よし、そうしよう」と思っても、そう安々と出来るはずもありません。
様々な稽古を通して、自分自身が相手に違和感を与えていることを知り、どう修正するかを問われます。
そのときに、手かがりとなるのは、日野先生の示すデモをきちんと「見ること」と稽古相手のフィードバックです。
「見て分かるようになりなさい」
これも日野先生がよく使われる言葉です。
昔から「百聞は一見に如かず」や「見習い」という言葉、つまり見て習えということが言われています。
見る目を養うことは、理解すること以上に、技術の習得には不可欠です。
また稽古相手のフィードバックも極めて重要です。
会を重ねるごとに変化するのは、このフィードバックの質です。
皆の「触れる」は良い方向に進むと同時に、受け手の感覚もよくなってきます。
ですから、「触れる手はよくなったけど、入り方が雑に感じた」や「触れている最中に少し手がぶれていた」など具体的にどんなことに違和感を覚えたのかが明確に言語化できるようになってきます。
そのフィードバックをヒントに、そして日野先生のデモを頼りに試行錯誤した経験が「触れる」を変化させていくのです。
「稽古に勝るものはないで」
我々受講生が日野先生に教わっている最重要なものは、この事かもしれません。
それは今なお進化を続ける日野先生が証明している事だと思います。
自分自身に成長を要求する。
そして、効果的な鍛錬の仕方を考え、常に検証していく。
現場は常に相手との関係性の上に成り立つという大原則を認識する。
即席でできるようになる事、分かりやすさという観点に偏ってしまうと、「稽古をする」という考えや実際に馴染みにくいかもしれません。
日野先生は「こころある医療従事者が育ってほしい」と願われています。
そうなりたいと思っても、どのように具体化すれば良いかわからない方。
ぜひ『明鏡塾』の門を叩いてください。
「触れる」が進化するほどに、患者さんや利用者さんの反応も変わります。
それは症状や状態が良くなるというだけでなく、本音を打ち明けていただいたり、関係が濃密になっていきます。
「いのちに触れることはできない」
これも日野先生の言葉です。
確かにそうかも知れません。
ですが、常にいのちと向き合っていると認識することはできるはずです。
その認識が、『明鏡塾』の塾生の成長を支えているのだと思います。
「触れる」は進化します。
それも際限なく。
そのことを『明鏡塾』塾生は証明していきます。
それが「こころある医療従事者」の仲間が増えていくことにつながることを楽しみに、そして使命として、今後も鍛錬していきます。